新聞広告は明治期中盤頃からマスメディア広告の中心として長らく君臨し続けた広告媒体です。
しかし、新聞広告の広告媒体としての価値は新聞の普及期にはあまり世に知られていませんでしたし、新聞社自身もその価値を十分理解していたとはいえないようです。
そういう時代に欧米の広告のビジネスモデルをいちはやく理解し、日本に紹介したのは教育者として名高い福沢諭吉でした。

「商人に告るの文」

福沢諭吉は中津藩の下級武士の家に生まれ、1859年の日米修好通商条約批准使節団に加わり咸臨丸で渡米、アメリカの最新技術や文化を学びます。また1861年には訪欧使節団の通訳としてヨーロッパ各国の都市を歴訪し、大量の資料書籍を日本に持ち帰りました。
これらの見聞をもとに書かれた「西洋事情」は、欧米の進んだ政治制度や社会制度の啓蒙書として注目を集め、その後は教育家として慶應義塾大学の創立などに貢献しました。

福沢諭吉は社会教育にも熱心で、1882(明治15)年に「時事新報」という新聞を創刊します。その翌年の明治16年に社説として掲載されたのが「商人に告るの文」でした。
この文には、「商売を成功させるためには多くの人に知られることが大切で、人通りの多い所に店を開き、看板を掲げ、店を飾り、品物を人目につくように並べ、積極的に広告もしなくてはならない」などと説かれています。そして広告コピー(広告文)の重要性についても指摘しています。
時事新報の広告欄を多くの企業に利用してもらいたいという意味もあったでしょうが、結果として日本に欧米流の広告ビジネスが導入される上で大きな役割を果たしました。

「広告取次業」の発達

1888(明治21)年、日本の広告代理店の創始というべき「廣告社」が開業します。当時の新聞広告のありようについては「広告のあけぼの(井家上隆幸・日本経済評論社)」に詳細に記されていますが、廣告社の創業者・湯澤精司も福沢諭吉の影響を大きく受けたひとりでした。

当時の新聞社には広告部門などというものはなく、新聞社に広告依頼人がやってくると「貴重な紙面に広告を載せてやる」というような態度で接していたといいます。「これではいけない」ということで新聞広告を専門に取り扱う「広告取次業」が発生し、積極的に広告を受注するための営業活動も行い、また新聞広告の有用性や有効活用法について世間に啓蒙を行うようになりました。
こうして日本でも次第に「ビジネスにおける広告の重要性」が理解されはじめ、広告取次業はしだいに隆盛を極めるようになりました。

主役の交代

明治後期から戦中・戦後に至るまでマスメディアの中心だった新聞ですが、1950年代にラジオやテレビといった電波媒体が登場し、ついにその主役を譲る日がやってきます。
しかし新聞広告には「天下の公器」たる新聞に掲載される広告としての権威があり、「あの○○新聞に公告を出している企業なら信頼できる」といった、新聞ならではの付加価値を生かした広告に活路を見出します。またテレビCMは15秒・30秒といった短い時間で商品や企業をアピールするため実態がなかなか視聴者に伝わりません。そこで「テレビ広告で名を知らしめ、詳細は新聞広告で伝える」といったメディアミックスも行われるようになっていきました。

これからの新聞広告

新聞は言論機関・報道機関であり、その発言には高い信頼性と社会的責任があります。こうした背景は現代においても変化はありません。インターネット広告全盛の現代においても社会のオピニオンリーダーである新聞の地位は揺らいでいないのです。そのため広告の掲載についても審査が行われますし、どのような広告でも掲載してもらえるというわけではありません。
誰もが手軽に情報発信できるインターネット時代だからこそ、取材や調査をもとに新聞社の文責において記事や論説を発表し続ける新聞の存在は貴重なものとなっています。
その新聞に掲載される広告もまた社会的信頼性・公共性・コンプライアンスを満たしたものであると考えられ、他の広告にない特徴を持ち続けています。
これからもこのような新聞広告の特徴を生かした広告は世の中に必要とされてゆくことでしょう。